ネコのヒトビト 2

gooからひっこしました。

信念というもの

この数年、

人々の持つ信念というものが

とても恐ろしいものだとつくづく感じるようになった

信念を持ってしまうと簡単に突き崩せない

それがどれだけ間違っているか 誰かから証明されても

その信念を曲げることができない

どれだけそれが愚かな内容だったとしても

その信念を変えるには相当な努力が要る

信念を変えるのはその当事者の強固な意思がなければできない

信念を変えるということはプライドが傷ついたり

それまでの人生を否定するようなことに気づいたり

自分自身を根底から揺るがすような

自分自身に対するイメージが崩壊するような

精神的なダメージを負う可能性があることだから

その信念の根底を覆すような内容を提供されても

それを 直視するのは勇気がいることだ。

どんなに 新しい概念が客観的にみて公平に見て正しくとも

自分自身が崩れ去ってしまうかもしれない

考え方を受け入れるのが怖くて

多くの人は気づかないふりをしてしまう

見えないふりをしてしまう。

 

信じろ

しかし

信じるな

 

 

いつかそういう言葉が浮かんだので書いた

ブログがある。

なぜこんな言葉が浮かぶのだろう

自分でも訝しがった

 

私は浮かんだことをすぐ書いてしまう

浮かんだことをそのまま書いてしまう

 

信じろ

しかし

信じるな

 

信念とは常に距離をもっておくこと

 

自分が何を信じようとそれは

それで構わない

しかしそれを信じている自分=自分自身である

という

同一化はしなくてよい。

 

信念を

自分のアイデンティティーにして

自分自身がこの信念と同一化してしまうと

 

その信念が突き崩され 崩壊してしまったとき

一緒に自分も崩れ去ってしまう

 

それは嫌だ

 

考え方と

自分という人間そのものに

距離を持つのである。

 

世の中にはいろんな考えがある

その程度のことなのだ

 

宗教戦争という言葉がある

いまイスラム教徒の人たちが

各地にあつまり 徒党を組んであるいている

動画が拡散されている

あちこちで礼拝したり

自分たちの宗教の方が 国(日本を含む)の法律より上位にあると

主張している人たちがいる

 

イスラム教の教えによると

自分たちが住む世界に自分の宗教観を持ち込んで強制するものではないと

できる範囲で良いと

イスラム教を信じる国でも かならずしも

お酒が禁止ではなく 豚肉も食べる国もあることを

現実を知る人たちが教えてくれる

 

宗教に対する信仰心のあまり

暴力を振るうとか人になにかを強要するとか

そういう宗教ではなく

 

そういうことをする「人」こそが

それ(宗教)を 「暴力を振るう あるいは人に何かを強制する」ための

「手段」として用いているのだ。

それは信仰心ではない

それは 勝手な解釈であり かえって神も 宗教も冒涜している

行為なのである。

 

信仰心というのは特定の宗教を持たないからといって

ないわけではない

日本人は特定の宗教を持っていないけれど

信仰心がないわけではない

 

証拠に 誰に強制されなくても 先祖を敬い お世話になった人を敬い

仕事を正確にこなし ということをするのが当たり前である

それは宗教によるものではなく

 

なんらかの信仰心である。

目に見えないものへの畏敬の念が 根付いているのである。

 

話がずれてしまったが

 

信念と自分を同一とし

人にまで押し付けて なにかをコントロールするのは

 

もはや それは

暴力行為と同じだと思う

 

そして

その信念が壊れた時 崩壊を起こす恐れのために

人々は 信念を守る=自分の自我、プライドを守るために

暴力を振るい 暴言を吐き なにかを強くコントロールしようと

あがき 激しく抵抗するものなのだ。

 

自分=信念ではない と

自分と信念を切り離すことができれば

 

その抵抗を軽減できるのではないか

 

信念を信じてしまった自己と

自分は別物であり

それはいつでも 新しく更新することが可能である

それはけして恥ずかしいことではなく

この魂が地球に降り立って、なにかを 体験して学ぶ過程にある

出来事の一つに過ぎないのだ